熊楠に会いに 田辺へ

南方熊楠

はじめに

 みなさん、南方熊楠という人を知っていますか。
 彼は、慶応3年の生まれで、昭和16年になくなりました。日本の有名な生物学者で、民俗学者です。
 彼の書いた本は、たくさんあります。私は、熊楠関連の本を何冊か読み、いつしか白浜とか田辺市など、熊楠ゆかりの地を訪れたくなってきました。そこで、思い切って、和歌山県へ旅行することにしました。2017年7月17日のことです。

1.南方熊楠という人

 彼は、慶応3年の生まれで、昭和16年になくなりました。日本の有名な生物学者で、民俗学者です。

 彼の書いた本は、たくさんあります。わたしも何冊か持っています。しかし、彼の本は、とても読みにくいです。

 といいますのは、彼は明治の人で、また並外れた記憶力を持っていますので、江戸時代の漢文、漢詩、和歌、短歌はすらすら読めます。また、アメリカやイギリスに留学しましたので、英語、ドイツ語、フランス語などは原書で読みこなせます。また、彼は、なにみはずれた記憶力を持っていました。ですから、一度読んだ本の内容は、全部覚えていますので、こういう人の書いた本は、とても難かしく読みにくいのです。

 熊楠の記憶力がすごかったことを物語るエピソードがあります。 彼が7歳の時、江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』に興味を持ちました。そして、知識欲の旺盛な彼は、その本が欲しくてたまりませんでした。しかし、とても高価でしたので、手に入れることは難しかったです。

 9歳のとき、父親の知り合いがその本を持っていると聞きました。
そこで、彼は、早速友達の家に行き、その本を見せてもらい、同時に同時にその場で内容を目に焼き付けました。
そして、自分の家に帰って、記憶を頼りに別の紙に書き写したのです。そして、何日もかかって、とうとう『和漢三才図会』105巻を全部写し終えてしましました。

2.旅行の動機

 こうして、熊楠関連の本を何冊か読み、いつしか白浜とか田辺市など、熊楠ゆかりの地を訪れたくなってきました。そこで、思い切って、家内と二人で和歌山県田辺市へ行くことにしました。
2017年7月17日のことです。

 一泊二日の日程でしたので、とても急ぎ足の旅でした。しかし、今回は田辺市とか白浜町の様子や、熊楠顕彰館、記念館、住んでいた家、奥さんである松江さんの実家の闘鶏神社、そして最後には熊楠の墓参りもできて、とても満足しました。

3.紀伊田辺駅に到着

 新幹線を使い、紀伊田辺駅に到着しました。駅で意外なモノを見つけました。
燕の巣です。田辺駅の駅舎の庇裏で巣を作っていました。田辺について、最初にこれを見つけたのは、さいさきがよいものでした。なぜなら、熊楠の代表作が1903年に雑誌「ネイチャー」で発表された「燕石考」だからです。

 この論文は、ロングフェローの詩の一節を引用しながら、燕石にまつわる伝説について、書き記した物です。燕の巣の中には、目の病に効く燕石があるといいます。この話は『竹取物語』にもでてきます。
 熊楠は、この話のルーツを求めて、ユーラシア大陸全体の民話とか寓話を検証しています。彼でなくては出来ない、スケールの大きな仕事でした。

4.南方熊楠顕彰館と熊楠邸へ

 今回の旅行の大きな目的地である、南方熊楠顕彰館と熊楠邸へいきました。そこはかなり面白かったです。熊楠が娘の文枝さんに送ったという思い出の品、『今昔物語』も展示されたありました。熊楠の娘への思いが伝わってくる一品です。

 庭先には、柿の木が植わっていました。彼は、1921年(対象10年)この柿の木で、ミナカテルラ・ロンギフィラ菌を発見しました。命名したのは、ロンドン自然史博物館の粘菌学者グリエルマ・リスター女史ででした。生木に発生する変形菌としては世界初とされます。凡人からみますと、何の変哲もない木ですが、見る人が見れば、とてつもない物を見いだすということの好例でしょう。彼は、若い頃キューバにわたり、ジャングルの中に分け入って、隠花植物などの研究をしました。まだ、外国旅行が、日本人には珍しい頃の話です。あるいは、現地の人との交流で、地方の言い伝えなどを採取したり、彼のフィールドワークの方法は、学ぶべき点が多いです。
 写真は、熊楠宅生前の部屋の様子を再現したものです。まるで、奥から熊楠が今にも出てきそうな雰囲気です。おそらく、町興しの一環で行っている取り組み違いありません。こうした、展示の工夫は、われわれ見る側にとっては、嬉しい限りです。

5.松江さんとの結婚

 顕彰館と、熊楠邸を見た後、付近にある闘鶏神社に行きました。
1906年、明治39年、熊楠は、闘鶏神社宮司さんの娘、松江さんと結婚しました。熊楠が40歳、松江さんが20歳の時でした。
 闘鶏神社境内には武蔵坊弁慶の像もありました。今回初めて知ったことですが、武蔵坊弁慶の出身は、田辺市でした

6.『南方熊楠記念館』へ行く

 旅行2日目は、半島の突端にある『南方熊楠記念館』へ行きました。
 記念館には、彼の書庫とそこにある蔵書、1929年、神島で昭和天皇にご進講した時に使われた例のキャラメル箱、南方曼荼羅を3D化したオブジェ、彼の脳の標本、デスマスク、実際に顕微鏡で観察できる粘菌のプレパラート、熊楠に関する参考図書など、いろいろと珍しい物が展示されていました。最後に、またTシャツ1枚を買った。
 記念館を出ようとしたとき、低気圧が襲い、足止めになりました。このような気象変動は現地でも珍しいとのこと。さては熊公がわたしのことを歓待しているせいか、などと独り納得しました。時ならぬ雨模様は、このあとで熊楠の墓参りをするときにも起きました。

7.高山寺への墓参り

 2日目の午後は、バスで高山寺に行くことにしました。
高山寺には、二人の偉人の墓がありました。南方熊楠と、植芝盛平です。

 南方熊楠の墓を見たとき、いかにも質素で、著名な人の割に寂しい感じがしました。
 折しも、雨が降り始め、彼が歓迎しているようでした。私は、そのとき花も水も持ち合わせていませんでした。ただ、手を合わせました。そして、思わず「先生、安らかにお眠りください」と、ことばが口に出ました。そうです、あなたは、本当に先生という呼び名にふさわしい人でした。

 高山寺での短い墓参りの後、タクシーを呼んで。そそくさと田辺駅に戻ることにしました。途中下車をして、銀座通りがどんなものか、歩いてみました。タクシーの運転手は、高山寺へは、子供の頃、野外映写会で行ったという話をしていました。また、田辺市衰退の最大の理由は、人口減少などと話していました。記念館で、往時の田辺市の様子をDVDで見ましたが、熊楠の生きていた頃が、田辺市が物心ともに一番輝いていた頃ではなかったかなどど運転手に話していました。

まとめ

 土宜法龍と熊楠の往復書簡とか、神仏合祀反対運動に関する一連の書には、日本人にとって「神社」信仰がどういう存在なのか平易に書かれています。現代に生き、未来を生きる次世代は、もう一度日本人として魂の核となる、古(いにしえ)の人々の抱いていた「聖なるもの」への思いを検証すべきではないでしょうか。
 最後の動画は、羽田へと向かう帰りの飛行機から、窓越しに撮影したものです。雲の中の雷鳴は、明治の時代を生きた熊楠を連想しました。

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